『気満る』_美味しいワインが飲みたくて vol.1

コロナ禍で様々な文化興業が中止になり、当たり前だった世界が非日常となったこの頃、9月に入り少しずつ演劇等の文化公演が厳しいルールの下始動し始めた。

楽しみにしていた歌舞伎・文楽等の公演が中止を余儀なくされ、だいぶ残念な思いをしたが、やっと半年ぶりに東京文楽公演に出かける機会を得た。

久しぶりの文楽。

文楽が楽しみの一つである私にはうれし限りの公演だ。

目的は何より勘十郎が人形を遣う「嫗山姥」。

何年か前までは自分の好みからか、人形より太夫や三味線といった「音」に集中して観ていた気がする。

今は亡き住太夫、そして今も現役三味線の第一人者・鶴澤清治などを聞き逃してなるものかと妙な気合を入れて通い、生意気にもあの太夫がどう、あの三味線がこうだなどと語っていた。

当時の私にとって、人形は二の次だったのかもしれない。

しかしある日、勘十郎の操る人形を見て衝撃が走った。

まったく異次元のものを見ている感覚。

今まで見ていた人形の姿と全く違った人形が、そこにはあった。

それ以来勘十郎の出る演目は欠かさず観るようにしている。

 

そして今回は「嫗山姥」の主人公・八重桐。

 

いまは、どこも同じような感じなのかもしれないが、劇場がただ単純に公演を観るだけの空間となっている。

売店が閉まっていたりと、観劇を楽しむちょっとしたお祭り的雰囲気はない。

文楽を上演した国立劇場小劇場はそれほどではなかったが、後で行った歌舞伎座の方に強く感じた。

座席も一つ置きで逆に見晴らしは良いが、興行としてはなかなか厳しいと思わざるをえない。

今まで体験したことのない独特の劇場の雰囲気の中、久々の文楽鑑賞という感情が加味されてか、私はそれこそ体験したことのない魂を揺さぶられるような文楽を観ることができた。

 

それは何より勘十郎。

勘十郎の操る八重桐の持つ力。

人形に魂が宿った、まるで生きているかのよう、などという陳腐な表現など一蹴してしまうそれ以上の大きなもの。

これはよく巷で使われるオーラなどというものとはちょっと違う。

「気」だ。

人形・八重桐=勘十郎からじわじわとにじみ出てくる「気」。

これは「生」をさらに昇華させたような、心が八重桐と、いや文楽そのものとまぐわうかの如く快楽へと誘う、静かで柔らかく、それでいて張り詰めた、五感だけでは感じ得ぬ不可視の力。

この「気」が大団円に向いさらに劇場を包み込んでいく。

千歳太夫、富助も素晴らしい。

 

なんだろう、この感じは。

私ごときの演劇愛好者ではうまく表現することはできないが、身体のもっと深いところを揺さぶる快楽というほかない。

その「気」の力に満たされて終演を迎えた。

 

ほんとうに、たまらない。

 

桐竹勘十郎、文楽の今後を考え長年にわたり大阪の小学校で児童に文楽の人形遣いの講習もする文楽人形使いの第一人者。

現在人形遣いのなり手も少なくなり、将来外国人が入ってくる時代も来るかもしれなと語っているのを、ある記事で読んだ。

確かに、世界は狭くなった。

一昔前では考えられないようなことだが、そんな日も来るかもしれないと色々と想像を巡らしつつ文楽の将来に不安と希望を抱きながら、改めて勘十郎の「嫗山姥」を思い起こす。

そう、こんなに満ち足りた日は「ああ、ワインが飲みたい」と独り言ちる。

ここまで「気」に満たされていたらちょっとやそっとのワインでは埒が明かない。

こんな時こそ開けるべきワイン。

 

『ドーヴネ・オーセイ・デュレス・ブラン 2005

 

マダム・ラルー・ビーズ・ルロワの手がける、彼女の個人的所有畑から作られる最高のドメーヌ=ドーヴネは、マダム・ルロワのそれこそ『気』が満ちあふれた圧倒的ワインだ。

ナッツやバター、柑橘や白い花、そしてトロピカルフルーツの甘さも併せ持つ複雑な香りを放ち、洗練されながらも圧倒的な分厚い果実味、秀逸な酸・ミネラル、見事としか言いようのない樽使い、非常に長い余韻。

これも、たまらない。

本当に文句のつけようのないワイン。

 

飲みたい。

けど、飲めない。

まず、近年高騰して高すぎる。

なかなか手に入らない。

持ってたけど、飲んじゃった。

でも、これくらいのワインでないと勘十郎の『気』とマリアージュすることはできない。

 

「美味しいワインが飲みたくて」

タイトルはなかなか楽に実践できるものではない。

大変だ。

 

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